年を取るたびに記憶力が薄れ、面白いと思ったこと、ものを忘れることが多くなりました。そこで備忘録を作ることにしました。記憶を失っても、この備忘録を読めば思い出せるかもしれません。
第38回 ダグダ
――アイルランド・ケルトが誇る、最強にして最愛の“お父さん神”
日本人は、なぜかアイルランド・ケルトが大好きである。ゲイ・ボルグだの、モリガンだの、邪眼のバロールだの、ティル・ナ・ノーグだの——これらはもはや神話用語ではなく、日本の漫画・アニメ界では日常語彙と言ってよい。
ただ一つ、ここでアイルランドの皆様に深く頭を下げねばならない案件がある。それは、英雄ルーが祖父バロールを倒した「投石弾」が、日本ではなぜか「魔槍ブリューナク(Brionac)」という名で広まってしまった件である。本来あれは、名前すら持たない、血に飢えた無口な石である。盛りすぎである。
さて、これほどケルト文化を愛する日本において、なぜかほとんど話題にならない神がいる。
それが父神ダグダだ。
短すぎる上着に、はみ出すお腹。おかゆをこよなく愛し、量があればあるほどテンションが上がる大食漢。
強い、陽気、人を笑わせる才能あり。
しかし彼はやらかす。
なぜなら、敵が用意した大量のおかゆを食べるのに夢中になり、本来の任務を忘れるからである。
これで父神である。愛さずにいられようか。
私がダグダという神に注目する最大の理由は、彼の正妻がモリガンである点だ。第33回を見ていただきたい。
破壊・殺戮・戦争を司り、気性が激しく、嫉妬深いことで名高い女神を妻に迎え、なおかつ5柱の子をもうけている。これはもう、円満家庭と呼んで差し支えない。
子どもたちも粒ぞろいである。
娘のブリギットは豊穣の女神で、ギリシャ神話で言えばアフロディーテ兼ヘスティアのような万能枠。
ブリジット・ジョーンズでご存じのように、現代でもブリジット、ブリギットといった名前が世界中に溢れているが、元祖はこの女神である。なお、アイルランドには同名の聖女が10人以上いる。被りすぎである。
さらに忘れてはならないのが、ボイン川の女神ボアン。
彼女には夫がいたのだが、ダグダを一目見た瞬間に恋に落ち、あっという間に仲良しに。
困ったのは妊娠後である。
ダグダは何を思ったか、太陽が動かない魔法を発動。夫は太陽が止まっていることに一切気づかず働き続け、その間に無事出産。
これはもう神話というよりコントである。
これらの逸話は『アイルランド来寇の書』や『マグ・トゥイレの戦い』に記されているが、
ダグダだけに焦点を当てても、笑いあり、涙あり、腹筋崩壊ありの大作が何本も作れそうだ。
最近日本では異世界転生ものが流行している。
ならばこうだ——
『転生したらダグダだった件〜おかゆ無双と父神ライフ〜』
間違いなくヒットする。
打撃系の巨大神といえば北欧神話のトールが有名だが、性格は正反対。
トールは真面目一筋の熱血漢。
ダグダは肩の力が抜けきった人生エンジョイ勢。
トール主役の作品は山ほどあるが、ダグダ主役は見当たらない。
アイルランドの人々にとってダグダとは、
**知恵・力・ユーモアを兼ね備えた「理想のお父さん」**であり、
民族のルーツを象徴する存在なのだという。
誰か、この父神を世界に広めてほしい。おかゆ片手に、私は全力で応援する。
第37回 試験監督
試験監督は、教員である以上、業務として避けて通ることのできない任務である。
受験生が一様に神妙な顔つきで鉛筆を走らせる様子から、試験会場こそが主戦場であると考える方も多いだろう。
しかし、運営側にとって試験会場は戦場の一つにすぎない。
試験とは、開始前から終了後まで、さらにはその前日、場合によっては数か月前から、あらゆる場所・すべての時間において油断の許されない総力戦なのである。
その緊張感は、試験監督に配給される弁当一つを見れば明らかだ。
老若男女の嗜好にまで配慮されたその内容からは、「空腹による判断ミス」という最悪の事態すら想定している運営側の本気が伝わってくる。
そして、このような膨大な準備と配慮の末に実施される試験は、滞りなく進行して当たり前である。
成功しても誰からも褒められず、ひとたび不具合が起これば即座に非難の的となる。
試験トラブルがマスコミで報道されるほどの大事件になることを、知らぬ人はいないだろう。
もちろん、試験運営は長年にわたる経験とノウハウ、そしてそれらを血と汗でまとめ上げたマニュアルに支えられており、通常は盤石である。一つや二つのトラブルで崩れるような脆弱な仕組みではない。
しかし、である。
予期せぬトラブルが同時多発的に発生した場合、話は別だ。
これは航空機事故に少し似ている。
多くの犠牲と検証の積み重ねによって航空機の安全性は極限まで高められており、単発のトラブルで墜落することはほとんどない。
だが、複数の異なるトラブルが同時に襲ってきたとき――話は急に現実味を帯びる。
「不幸は友達を連れてくる」というが、同じ種類の不幸なら対処できる。
しかし、性格も目的も異なる不幸たちが、示し合わせたかのように同時到着した場合、それは運営と試験監督にとっての悪夢である。
そして、こうした悪夢を華麗に処理できて当たり前。ひとたび対応を誤れば、四方八方から非難が飛んでくる。試験監督とは、成果は不可視、失敗は可視という、なかなか業の深い役回りなのだ。
とはいえ、そんな試験監督にもささやかな喜びがある。
それは、真剣な受験者の表情を間近で見ることができる、という点だ。
問題に向き合い、必死に考え、時に唇をかみしめながら答案を書くその姿を、
「この顔をそのままご両親に見せてあげたい」と思うのは、私だけではないだろう。
多くの親御さんは、自分の子どものこの真摯さを誇りに思うに違いない。
年を取ったせいか、すっかり親目線になってしまったが、
この光景を見るたびに「最近の若者はなっとらん」などという言葉は、どこかへ消えてしまう。もっとも、この台詞自体はメソポタミアの粘土板にも刻まれているらしいのだが。
なお、受験生本人たちがこの姿を親に見せたいと思っているかどうかは、甚だ疑問である。そもそも試験中の個人の姿を記録することなど不可能だ。
ということは――
この光景を目にできるのは、試験監督だけの特権なのではないだろうか。
第36回 渚にて
パンジャンドラムの開発者が描く、恐ろしくも静かな終末
核戦争後の静かな世界の終末を描いた『渚にて』は、謎兵器「パンジャンドラム」や実用対潜ロケット「ヘッジホッグ」を開発したネヴィル・シュートによる名作SFです。
物語では、北半球で起きた核戦争により大部分の人類が死滅しますが、南半球では被害が比較的少なく、人々はこれまでどおりの生活を続けていました。しかし、北半球を覆う致死的な放射能を放つ「死の灰」は、いずれ南半球にも到達し、人類滅亡は避けられないと考えられていました。
そんな中、米国から微弱なモールス信号が発信されていることが確認されます。時折、意味のある通信になっていることから、生存者がいる可能性が示唆されました。もし北半球で放射能が低下しているのなら、そこに移動することで人類が存続できるかもしれません。そこで、核戦争を免れてメルボルンに寄港していた米国攻撃型原潜が、調査のため米国に派遣されます。
以上が『渚にて』のプロットですが、物語の中心は、この原潜で調査に向かった三人の人間関係です。米国に家族を残してきた米海軍艦長と自由奔放な女性、オーストラリア海軍士官とその妻子、そして独身のオーストラリア人研究者。原潜がメルボルンに帰港した後、これら三組が織りなす「最後の日々」こそが物語の主題となっています。
赤道に近い都市からの通信が次々と途絶え、ブリスベンからは別れの挨拶がラジオ放送されるなか、オーストラリアの住民は驚くほど理性的です。さらに南のタスマニアに逃げる人も、暴動を起こす人もいません。彼らは、最後まで平穏な日常を望んでいるのです。
やがてメルボルンにも、目に見えない死の灰が降り始めます。終盤の描写は特に印象的です。研究者がオフィスに向かうと秘書の姿はなく、彼の机には謝辞と別れの手紙が置かれています。彼はそれを黙って読み、静かに受け止めます。一方、街中では教会の鐘が鳴り響き、若い女性が吐き気をこらえた青ざめた顔で車を飛ばしています。彼女は、自沈の最終ミッションに向かう艦長に「連れていって」と伝えるため、港へ向かっているのです。
私は、最期の日にここまで理性的でいられるのか自信がありません。しかし、多くの人は、この物語のように静かな最後を迎えるのかもしれません。
第35回 ゲルマンの神話のロキ フェンリル、ヨルムンガンド、ヘルの親
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ゲルマン神話のロキといえば、フェンリル、ヨルムンガンド、ヘルの親であり、映画「マイティ・ソー」の悪役であり、ジム・キャリー主演映画「マスク」の正体でもあります。にもかかわらず、このロキという神様、分類不能すぎて困る存在です。
まず、ロキといえば「トリックスター」「道化師」「いたずら好き」などのイメージがついてまわりますが、「じゃあロキは何の神なの?」と聞かれると「えーっと……?」と口ごもるしかありません。性格は有名なのに、権能が謎。あるいは、そもそもないのです。そんな神様、見たことありますか? 私はあまり出会いたくありません。
次に、神様なのに、ロキを祀っていたという記録が一切ありません。神殿もない、山や川が象徴になっているわけでもない、抽象的な概念としても祈られていない。つまり、ロキは神話の中にだけ住んでいて、現実世界では「居留守」を使い続けていた神様なのです。
にもかかわらず、ロキはオーディンの槍グングニル、トールの槌ミョルニル、フレイの船スキーズブラズニル、黄金を生み出す腕輪ドラウプニルなど、ゲルマン神話に欠かせない神宝の誕生に必ず絡んできます。「祀られてないくせに出しゃばり度はMAX」という大変ややこしい立ち位置です。
さらに、ロキはあの超有名な狼フェンリル、世界をぐるりと取り巻く大蛇ヨルムンガンド、そして死者の国の女王ヘルの親でもあります。ちなみにヘルは地獄(hell)の語源で、戦死しなかった“あまり祝福されていない死者”が行く場所を治めています。ロキとその子供たちが世界の終末をもたらす物語が、いわゆる「神々の黄昏」です。
祈る人はいない、権能も不明、それなのにゲルマン神話のど真ん中に居座り、いないと物語が回らない。ロキとは、そんな“カオス担当大臣”のような存在なのです。
ロキの性格をきっちり分類しようとすると、アポリアや二律背反の渦に巻き込まれ、だいたい頭がこんがらがります。しかし、理解不能な複雑さと矛盾こそが、実はロキの最大の魅力なのかもしれません。
第34回 名状しがたい悪意
我が家には、ちょっとでも隙を見せると攻撃してきて、こちらの気力をごっそり奪っていく危険な柑橘類があります。その名も「柚子」です。
柚子は日本料理の風味付けに欠かせない名脇役で、果皮や果汁はお料理に華やかな彩りを添えてくれます。しかし、この子、単独で食べられることはほとんどありません。
なぜなら、柚子にはビタミンCやクエン酸が山ほど詰まっていて、うっかり大量に食べるとお腹が痛くなってしまうからです。我が家には果樹が多いのですが、なんと烏でさえ柚子にはまったく手を出しません。鳥にすら敬遠されるフルーツ…強い。
そして、柚子の最大の悪意ポイントと言えば、やはり「棘」です。写真をご覧ください。バラの棘がかわいく見えてしまうほど、柚子の棘は悪意の塊です。多分、心臓から上あたりにまともに刺さったら致命傷になるのでは、と本気で思うくらいの太い棘が下向きにズラリと装備されています。
樹を手入れしようものなら、この棘が容赦なく襲い掛かってきます。枝を運ぶときなんて、もうケガを覚悟しなければなりません。本来、棘というのは「下から食べられないための防御装備」ですが、そもそも柚子の幹や葉っぱを好んで食べる動物なんていません。
思わず「おまえ、誰と戦っているんだよ」と問い詰めたくなります。
さらにこの棘、果実を採ろうとする人間にも容赦なく襲い掛かります。これでは、果実を運んで種を遠くへ届けてもらうという、植物としての生存戦略にも支障が出るはずです。
誰も食べようとしない実を、誰にも触らせまいと全力でガードしている柚子を見ると、なぜか少し愛おしく思えてしまうのは、私だけでしょうか。
第33回 ケルトの破壊、殺戳、戦いの女神、英雄にフラれる
ケルト神話には、私の好きな女神が一柱いらっしゃいます。名前はモリガン(Mórrígan)です。両手に槍を構え、真っ赤なドレスをまとい、真紅の馬に牽かせた戦車に乗って登場するモリガンは、破壊・殺戮・戦いを象徴する女神です。彼女には妹が二人おり、狂気を司るマッハ(Macha)と、戦場での死を予兆するバズウ(Badb)がいます。三姉妹全員が非常に物騒な存在で、その長女がモリガンです。
ある時、モリガンは人間の英雄クー・フーリン(Cú Chulainn)に恋をします。彼は普段は美しい若者ですが、戦闘になると興奮のあまり「ねじれの発作」(ríastra)を起こし、イラストのような最終形態へと変わる“トランスフォーマー”のような存在です。こうした激しい性質を持つ英雄を愛してしまうあたり、モリガンの懐の深さに私は感心してしまいます。
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モリガンはクー・フーリンに愛を告白しますが、彼は「今は愛にうつつを抜かしている時ではない」とあっさり拒絶します。さらに、「戦場では力になれる」と食い下がるモリガンに対し、「女の力を借りるつもりはない」と、現代では大問題となる発言までしてしまいました。これに激怒したモリガンは、さまざまな怪物へと変身し、クー・フーリンへ襲いかかります。
私がモリガンを好きなのは、この襲撃のくだりです。モリガンは何度もクー・フーリンを絶体絶命の状況に追い込みます。しかし、彼にとどめを刺す直前になると手を抜き、逆に撃退されてしまい、最後には足まで切り落とされてしまいます。つまり、彼女がクー・フーリンを襲うのはポーズにすぎず、本気で命を奪うつもりはまったくないのです。
二人の最後の邂逅はとても印象的です。クー・フーリンが最後の戦場に向かう途中、川のほとりで血まみれの鎧を洗うモリガンの姿を見かけます。この行為は、古くから「その戦いに参加すれば死ぬ」という予兆を示すものとされています。その時、二人はすでに和解していましたが、クー・フーリンは何も言わず、モリガンから離れてそのまま戦場へ向かいました。
案の定、クー・フーリンはその戦いで命を落とします。しかし彼の遺体の肩には一羽の烏が止まり、遺骸が敵に奪われるのを防ぎました。烏はモリガンの象徴です。
古今東西、さまざまな神々が存在しますが、モリガンほど複雑で人間味あふれる神は、私の知る限り他にいないのではないでしょうか。まるでモデルとなった人物が実在したのではないかと思えてならないのです。
第32回 プレッツェル ドイツ由来の菓子パン
無性に焼きたてのプレッツェルを食べたくなる時があります。プレッツェルには、大きな菓子パンタイプと、固く焼きしめた小さなスナック菓子タイプの二種類があります。後者のプレッツェルは、日本の金字塔的なお菓子「プリッツ」の元になったと言われています。チョコレートをコーティングした派生シリーズを考えると、日本ではかなり多くのお菓子が、プレッツェルにルーツを持つと言えるかもしれません。
私が今食べたいのは菓子パンタイプのプレッツェルで、アメリカ・ペンシルバニア州に住んでいた時に初めて食べ、そのおいしさの虜になりました。チョコレートやシナモンなどでトッピングされたプレッツェルも魅力的ですが、何も乗せないプレーンタイプの味わいも格別です。そして、プレッツェルがドイツ南部由来であることを知り、ペンシルバニア州がドイツと深い縁を持つ地域であったことに改めて気づきました。
正月に招かれて訪れたお宅で出された料理は、ソーセージとザワークラウトでした。夜道を車で走っていると、速度が遅いために急に近づいて見える小さな黒い馬車が現れることもあります。そこに乗っているのは、現代技術を避けて生活するアーミッシュの人々です。彼らの祖先も、ドイツやスイス南部から移住してきました。昔、ペンシルバニアには多くのドイツ語圏出身者が移住し、その文化が地域に根づいたと言われています。そしてドイツ系でない人々もその文化を好み、広く受け入れられたそうです。ホットドッグやプレッツェルは、アメリカを通じて世界中に広がったドイツ文化の象徴とも言えます。
ペンシルバニアのショッピングセンターには必ずといっていいほど、焼きたてアツアツのプレッツェルを売る店がありました。しかし、日本では探さなければ出会えない食べ物。それがプレッツェルです。
第31回 ポール・アンダーソン 大魔王作戦(Operation Chaos)
ハリー・ポッターより遥か前に書かれた米国ファンタジー
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神や悪魔、そして魔法の存在が科学的に証明された世界線のアメリカを舞台に、魔法使いと狼男のコンビが活躍するファンタジーが、ポール・アンダーソンの『大魔王作戦(Operation Chaos)』です。
この世界では、空中移動の推進力はジェットではなく箒です。そのため、戦闘機や爆撃機を含む航空機の後部や翼からは、箒が突き出しているという独特の光景が広がります。精霊やユニコーンといった幻獣はもちろん、獣人や魔法使いがごく当たり前に生活しており、こうした世界観が1971年に発表されていたことには驚かされます。
物語は、ある組織が魔人(イフリート)を封じた壺を回収し、それを用いてアメリカに壊滅的な被害を与えようと企てるところから始まります。この世界においてイフリートは最終兵器に等しく、その解放は国家の崩壊を意味します。そこで急遽、狼男と魔法使いによる特殊コマンドが結成され、イフリートの無力化のために派遣されます。主人公である狼男の任務は、魔法使いをイフリートのもとまで護衛し、彼女が無力化を行っている間、何者にも邪魔をさせないことです。
作戦は意外にもあっけなく成功しますが、その手段は魔法でも暴力でもありませんでした。これが第一話「オペレーション・イフリート」です。
その後も、うっかり召喚されたサラマンダーが大暴れしたり、新婚旅行先でサキュバスと対峙したりと、日常の中に非日常が次々と入り込む物語が展開されます。最終的には、二人の愛娘が地獄に誘拐され、奪還のために夫婦で地獄へ殴り込みをかけるという、まさに破天荒な展開を迎えます。
本作がなぜ映画化されていないのか、不思議でなりません。発表当時の特殊撮影技術では表現が難しかったかもしれませんが、現代の映像技術であれば、原作の醍醐味を余すところなく再現できるのではないでしょうか。
第30回 Be、Baで名が始まる悪魔は、古の神の名残です
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語尾に「エル」をもつ天使名が数多く存在するように、「Be」や「Ba」で始まる名をもつ悪魔も数多く知られています。ベルゼブブ、バアル、ベルフェゴール、ベリアル、ベレト、ベルアルファス──いずれも高い知性と強いカリスマ性を備えた大悪魔です。
ちなみに我が国では、初の悪のウルトラ星人として「ウルトラマンベリアル」が登場しました。しかし彼は、しばしば品位に欠ける発言を行うため、Beで名が始まる本来の大悪魔たちとは分けて考えたほうがよいでしょう。本来のベリアルは、イエス・キリストが地獄の利得を損なった被告人として神に訴えられた際、原告側の弁護士を務めるほどの知性をもつ存在です。
また、Beで始まる名をもつ大悪魔は、文学作品においても重要な役割を果たしています。たとえば『君主論』で知られるルネサンス期の思想家マキャベリは、「便器の悪魔」ベルフェゴールを主人公とした一編を著しました。地獄に堕ちた男たちへの聞き取り調査の結果、多くの男が「結婚によって人生を狂わされた」と主張していることが明らかになります。これを受け、地獄界では「幸福な結婚は果たして存在するのか」という議題が持ち上がり、その実地調査のためにベルフェゴールが人間界へ派遣されました。裕福な家に生まれ、結婚を通じて使命を全うした彼は、辛うじて人間界から帰還し、地獄の調査委員会にこう報告します。「幸福な結婚は存在しなかった」。マキャベリの人間観がよく表れた作品です。
では、なぜ大悪魔の名の多くがBe、Baで始まるのでしょうか。それは、この語が本来「主」を意味しているからです。「我が主〇〇様」という呼称が名として固定化されれば、その存在は必然的に大悪魔となります。そしてこの接頭語は、かつて単独でメソポタミアのエンリル神やアダト神を指していました。いずれも民にとっての「主」であったからです。
現代においても、Beで始まる名をもつ悪魔は、漫画やアニメをはじめとするさまざまな分野で活躍しています。もはや誰からも祈られることのなくなった古の神々が、形を変えながら、いまだ人間の記憶の中に生き続けているように思われます。
第29回 寒川神社
神話では語られない、災厄を防ぐ夫婦神の別格神社
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日本では陰陽道の関係から厄年という年齢が設定されています。その設定年齢の前後1年を加えた3年間は、災厄に会いやすい年齢とされています。男性は25歳、42歳、61歳、女性は19歳、33歳、37歳、61歳が厄年に設定されていることから、仕事、体調で変調が起きやすい年齢に注意しなさいということになります。呪術のように見えますが、社会的、科学的にも納得のいく指摘です。
この災厄を防ぐ神社の一つとして挙げられるのが神奈川県の寒川神社です。この神社で祀られるのは夫婦神ですが、この神様達が神話に記録されたことはありません。この神社は極めて古くからあるとされていますが、創建時期も不明です。しかし、西暦927年には朝廷が信頼を置く国家の一大神社として記録されています。不明なことが多いのに古代から別格というかなりcoolな神社です。
その寒川神社に行ってきました。朝8時台なのにすでに長蛇の渋滞。とんでもない数の参拝者。年に一度程度しか発揮しない日本人の信仰を凝縮していました。そして多くの人が参拝するのは本殿前ですが、本殿の中では祈祷が続けられています。この祈祷、これまでとても聞き取れるものではないとあきらめていましたが、今回は聞き取るつもりで聞いてみました。
まず、名前。名前がなければ神様も誰が祈っているのかわかりませんから。次に何を祈るか。厄除け、商売繁盛、健康といった内容が続きます。その中で時々、〇〇大学合格とか△△大学合格とかいう祈祷が聞こえてきます。ああ、この子はよっぽどあの大学に入りたいんだな、とか、親御さんの願いが耳に届きます。なんだか、祈祷と聞いていて、朗らかな気分になりました。
第28回 ジョヴァンニ・ボッカチオGiovanni Boccaccioデカメロン
惨劇のフィレンツェにて
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天使のふりをして、敬虔な女性をその気にさせようとするけしからん修道士。悪行を重ねた極悪非道の人が死ぬ直前に神父に祝福してほしいため、嘘の告解をする。このため、この極悪人は死後に聖人として崇められてしまう。こんな笑い話をフィレンツェ方言の散文で収録したのが、ジョバンニ・ボッカチオのデカメロンです。
しかし、ボッカチオはただの愉快な奴ではありません。それまで単に戯曲(Commedia)と呼ばれていたダンテ・アリギエーリ(第24回を参照)の作品に「神聖な(Divine)」を冠し、Divina Commedia (Divine Comedy)、すなわち、神曲として世に広めたのは、生真面目で真摯なダンテを尊敬するボッカチオの功績です。
彼の他の作品としては、『テーセウス物語』、『愛の幻想』、『フィアンメッタ悲歌』が挙げられますが、どれも人間の内面を、葛藤を描いた人間中心主義の力作です。なお、『名婦列伝』、『異教の神々の系譜』もボッカチオの著作ですが、これは学術書に近い作品と言っても過言ではありません。そして、私には、デカメロンが他の作品と異なっているように思えてしまうのです。これは、この名作が書かれた背景が原因かもしれません。デカメロンは酸鼻を極めたフィレンツェで書かれた可能性があるからです。
デカメロンの冒頭に笑い話はありません。黒死病に襲われたフィレンツェとこの街に住む人の惨状が淡々と客観的に記述されています。症状、経過、人々の考え方と行動、その結果、社会の変動。これらの冒頭部は最も詳細に記録された初の黒死病の記録として高く評価されています。フィレンツェの75%を死に至らしめた黒死病。その惨禍を語り手は次のように締め括っています。「大きな堀が掘られ、そこに遺体が積み重ねられました。こんなに多くの人がこの街に住んでいたことを初めて知りました。」見た者しか語れない言葉に絶句します。
このフィレンツェを逃げ出し、隔離生活を過ごす男女が語り合う物語が「デカメロン」主要部分です。彼らには、ボッカチオにはユーモアが必要だったのではないでしょうか。
私は死屍累々のフィレンツェを背景に、佇むボッカチオに思いをはせてしまします。
第27回 多くの女神に愛され、それでも生き残り、幸せになった男
オデュッセウス(ユリシーズ)
日本人にとって Odyssey という言葉は、せいぜい「冒険旅行」ほどの意味で受け取られているのではないでしょうか。しかし、映画『2001: A Space Odyssey』が示すように、Odyssey の本質は、長く過酷な苦難の旅です。その語源となったのが、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』の主人公、古代ギリシアの英雄にして智将、オデュッセウスです。
この男にまつわる逸話は、現代でもよく知られています。彼の発案による「トロイの木馬」と、その結末として滅びたトロイ。あるいは、海岸に素裸で漂着した彼と出会うナウシカア姫の場面などです。ちなみに、第24回で紹介したダンテは、このトロイの木馬の謀略を許せなかったらしく、『神曲』ではオデュッセウスを容赦なく地獄の深層に落としています。
私は、オデュッセウスが多くの女神に愛されながらも生き延び、最終的に故郷へ帰り、妻との再会というハッピーエンドでオデッセイを終えた点を、誰よりも高く評価しています。
一般に、女神の愛は悲劇へとつながりがちです。アプロディーテーに愛されたアドニス、ワルキューレのブリュンヒルドに愛されたジークフリード、モリガンに愛されたクー・フーリン。ちなみに私はモリガンの物語がとりわけお気に入りです。人類史上初の「ツンデレ女神」ではないでしょうか。愛した男の命を狙うふりをするほど、屈折した愛情をもつ神です。
いずれにせよ、女神の愛は多くの場合、破滅を伴います。しかし、例外が一人だけいます。それがオデュッセウスです。
オリュンポス十二神の一柱、知恵と戦いの女神アテナは、オデュッセウス贔屓の筆頭で、彼が故郷へ帰れるようあらゆる手を尽くします。次に現れるのが魔女キルケー。部下をすべて豚に変えてしまうほどの恐ろしい魔力を持つ彼女は、オデュッセウスを愛するあまり、自らの孤島に引き留めてしまいます。そしてカリュプソー。彼女もまたオデュッセウスを愛し、長いあいだ彼を自分の島に閉じ込めてしまいました。
これを見かねて遣わされたのが、オリュンポス十二神の一柱ヘルメスです。オデュッセウスを解放するよう穏やかに説くヘルメスに対し、格下の女神であるカリュプソーは食ってかかります。神々は嫉妬深く、女神が人間の男を夫とすることすら許そうとしない――そう訴える彼女の姿に、普段は静かなカリュプソーへの好感度は一気に跳ね上がります。
しかし彼女は、海岸で悲しげに沖を見つめるオデュッセウスの姿を見て、ついに彼を解放します。断腸の思いだったことでしょう。
カリュプソーの島を筏で旅立ったオデュッセウスは、再び遭難し、漂着した先でナウシカア姫と出会います。これほど多くの女神や女性と関わる英雄も、なかなかいません。
だからといって、オデュッセウスが女性にだらしない男だったわけではありません。彼が「妻ファースト」の人物であることは、『オデュッセイア』の結末を読めば明らかです。
そんな男だったからこそ、女神たちは彼を愛し、そして彼自身も、幸福な結末を迎えることができたのかもしれません。
第26回 聖ニコラオス=オーディン=サンタクロース?
――クリスマスイヴの夜中に侵入してくる、あの人
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サンタクロースが聖ニコラオスをモデルにした存在であることは、皆さんもよくご存じでしょう。
匿名で善行を積むことを信条とした聖ニコラオスは、白髪に顎をすっぽり覆う長い髭、白い僧服に赤いケープという姿で描かれます。言われてみれば、これはもうサンタクロースそのものです。
ところが、ここで一つ、どうにも腑に落ちない点が出てきます。
聖ニコラオスの記念日は彼の命日である12月6日です。クリスマス・イヴとは、どう考えても少し距離があります。
この「ずれ」を説明する鍵が、ヨーロッパに古くから続く冬至祭です。
古代ローマやゲルマニアの人々にとって、冬至は日照時間が再び伸び始める節目であり、「再生」の始まりとして非常に重要な日でした。実は、聖書を含むどの文献を見ても、イエス・キリストが生まれた正確な日付は分かっていません。分かっているのは、処刑された曜日くらいです。
そこで、冬至を祝う祭りの日が、後になって「キリスト誕生を記念する日」と定められました。これは誕生日というより、象徴的な記念日なのです。
こうなると、冬至祭の前夜に、空を飛び、トナカイにそりを引かせて家々を巡るサンタクロースの正体は、キリスト教以前のヨーロッパの習俗や神話に由来している可能性が高くなります。
ここで最有力候補として挙げられるのが、北欧神話の主神オーディンです。
もっとも、共通点は「白く長い髭の老人」という外見くらいで、印象はかなり異なります。オーディンは幅広の帽子を目深にかぶった片目の老人で、「狂乱」を司る神でもあります。八本足の馬に乗り、亡霊や精霊を従えて、ハロウィーンから冬至祭にかけて空を移動する――これが「オーディンの狩り」です。日本でいえば百鬼夜行に相当し、不吉そのものです。
こうした点を考えると、「オーディン=サンタクロース=聖ニコラオス」という等式には、どうしても無理があるように感じられます。あまりにも殺伐としています。
では、他に何かつながりはないのでしょうか。あります。妖精トムテです。
赤い帽子をかぶり、長い髭を蓄えたトムテは、まるでサンタクロースのミニチュア版のような存在です。北欧では、家や納屋を守る小さな妖精として知られています。映画などでは、サンタクロースの工房で、子どもたちに配るおもちゃを作っているのがトムテであることも多いです。
冬至祭には、このトムテにミルク粥を供えて感謝する習わしもあります。
しかし、ここでも少し違和感が残ります。本来、感謝するべきなのは私たち人間の側のはずです。私たちがプレゼントをもらう立場にあるのは、どう考えてもおかしいのです。
このように考えていくと、私たちはサンタクロースをめぐる何か大切な伝承を、途中で失ってしまったように思えてきます。それはいったい、何なのでしょうか。
こうした小さな「ずれ」や「違和感」を丁寧につなぎ直すのが、人文科学の多くの役割の中の一つです。
いまさらながら、この分野の重要性を強く感じずにはいられません。
第25回 ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』
※最終章は、休日前日に読むことを勧めます。
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人は感動すると涙します。
私は悲しい結末そのものに涙することはあまりありませんが、「人の善性」には驚くほど弱い人間です。こう書くと、まるで邪悪の権化のようですが、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』は、最後のたった一文で私を完全に撃破する作品です。
本作はSF小説に分類され、優れたSF作品に贈られるヒューゴー賞、ネビュラ賞を受賞しています。しかし、その本質はSFという枠を軽々と超えていると言ってよいでしょう。
ちなみに、アルジャーノンは主人公ではありません。生物学的な脳改造によって、極めて高い学習能力と知性を得たネズミの名前です。SF的要素は、この脳改造の設定にほぼ限られています。アルジャーノンが人語を話したり、人間に復讐したりすることはありませんので、その点はご安心ください。
主人公は、パン屋で働く発達障がいのある青年です。実直で素朴、そしてとても優しい人物として描かれています。彼は、アルジャーノンに施されたのと同じ脳手術を受けることを承諾し、その結果、IQ185の天才へと変貌します。
ダニエル・キイスは、この急激な知能の上昇を、非常に巧みな描写で表現します。印象的な場面の一つが、手術後にロールシャッハテストを受けたときのやり取りです。主治医から「以前の答えとまったく違っている」と指摘されても、青年は「変わっていない」と言い張ります。そこで主治医は、手術前の彼の回答を録音した音声を聞かせます。
そこには、「インクの染みが何に見えるか」という質問の意味を理解できず、「そんなところに絵なんて隠されていない」と答える、手術前の彼の声が流れます。青年は、自分がかつて何を理解できていなかったのかを、残酷なほど明確に突きつけられるのです。
知能の向上とともに、彼はそれまで見えなかった真実や、感じることのなかった感情に直面し、苦悩するようになります。ここまでが物語の「承」にあたりますが、「転」から物語は一気に重さを増していきます。
天才となった彼は、アルジャーノンの行動や研究の進展から、脳手術による知能の向上が一時的なものであり、やがて不可逆的に低下することを知ってしまいます。最終的には、手術前よりもさらに低い状態へと落ち込み、「身体のコントロール」すら失われていく運命が待っています。
その事実を悟った彼は、静かに後始末を始めます。知能が衰えていく中で、かつて好意を寄せた人へ置き手紙を書き、やがて再びパン屋に戻ります。そんな彼を温かく迎える職人たちを見て、彼は「あたまがよいことは
しあわせではない」と書き残します。そして物語の最後、「追伸」の一文が、この青年の優しさのすべてを凝縮するのです。
本作は、世界で最も読まれている小説トップ10に常に名を連ねる名著です。未読の方は、ぜひこの機会に手に取ってみてください。ただし――
最終章は、休日前日に読むことを強く勧めます。
第24回 『神曲』ダンテ・アリギエーリ
不器用な天才
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『神曲』の作者ダンテ・アリギエーリといえば、個人の内面や魂の救済に光を当て、人間存在の意味を深く問いかけた人間中心主義の先駆者であり、後のルネサンスを切り拓いた偉大な思想家・詩人です。また、辺獄・地獄・煉獄・天国という死後世界を壮大な体系として描き上げ、キリスト教的世界観の重要な基盤を築いた人物でもあります。さらに、ラテン語ではなく、人々が日常で用いる言葉によって最高水準の文学が成立しうることを実証した点でも、彼の功績は計り知れません。
このように紹介すると、ダンテは近寄りがたい巨人のように感じられるかもしれません。しかし、実際に彼の文章を読むと、不思議なほど身近な存在として感じられます。「文は人なり」という言葉が、これほどよく当てはまる作家も珍しいのではないでしょうか。
『神曲』の主役は、ほかならぬダンテ自身です。地獄から天界に至る旅の中で、見聞きしたすべてを書き留めることが自らの使命であると告げられる場面があります。「そのような大役が自分に務まるのか」と愕然とするダンテに対し、使命を告げた古代ローマの詩人ウェルギリウスは厳しく叱責します。「この使命は、比類なき才能を持つ者にしか果たせない。そのような人物はダンテ以外に存在しない。それでも逃げるのか」と。――自分ことを天才と言っちゃってます。
この場面を理解するには、『神曲』が執筆された背景を知る必要があります。ダンテはかつてフィレンツェで政治的に主導的な立場にありましたが、政争に敗れ、都市を追放され、生涯にわたって帰還を許されませんでした。孤独と放浪の只中で、『神曲』は書かれました。彼には、自分自身を鼓舞しなければならない切実な理由があったのです。そして彼は、この創作行為によって、生命すら脅かされる絶望的な状況を乗り越えてしまいました。
初恋の相手であるビーチェ・ディ・フォルコ・ポルティナーリを、「ベアトリーチェ」として『神曲』の核心に据えたことについても、説明が必要でしょう。銀行家の娘として生まれ、結婚し、数人の子を産んだのち、24歳という若さで亡くなった彼女は、『神曲』がなければ、歴史の中の「数多くの一人」にすぎなかった存在です。
9歳のとき、同年代の彼女に一目惚れしたダンテは、その後も彼女への思慕を募らせます。しかし、ここで彼の不器用さが露呈します。彼女に直接思いを伝えることを避け、「自分の恋は彼女を困らせるかもしれない」と考えた彼は、なぜか全く別の二人の女性に宛てた恋の詩を書き続けました。その結果、周囲は当然、ダンテがその二人の女性に心を寄せていると噂します。この噂はビーチェの耳にも入り、彼女はダンテに挨拶すらしなくなりました。
なんと生き方の下手な人なのでしょうか。それでも、たとえ彼女に嫌われ、他人の妻となり、子を産み、若くして世を去ったとしても、ダンテは自分にとって特別なビーチェを、「ベアトリーチェ」として作品の中に復活させずにはいられませんでした。現代文化へと連なるルネサンスの扉を開いた天才ダンテは、同時に、驚くほど不器用な人間だったのではないでしょうか。
第23回 アンモニア製造では鉄が最強だった─教科書・AI・実験、すべてが同じ結論に収束した話─
1.宇宙規模のストーリーから始まる答案
まず、宇宙の成り立ちを少しだけ。
核融合・核分裂で最も多く生まれる金属が鉄です。鉄より重いコバルト、ニッケルや貴金属は、超新星爆発や中性子星衝突などの“宇宙の大イベント”でようやく生成されます。つまりこの宇宙は、基本的に鉄で満ちています。地球も重量の30〜40%が鉄です。地球上で鉄の文明が続いているのも頷けます。どこにでも、豊富にある、安価な資源。それが鉄です。
それでも現在、アンモニア合成ではルテニウムとコバルトを使う触媒が人気、鉄は「古臭い」「性能が低い」とみられがちです。本当にそうなのでしょうか?
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2.中学教科書の“イオン化傾向”はこう語る
アンモニア合成の最大の壁は、窒素分子(N₂)の強固な三重結合を切ることです。
電子を放出しやすい金属ほど、この分解を助けられる。つまり、イオン化傾向に従えば…
鉄 > コバルト > ルテニウム
となり、理論的には鉄が最も強いアンモニア合成触媒になるはずです。中学理科、侮れません。
3. AIに問いかけたら?──専門計算抜きのシンプルな質問──
スマホでも試せる質問があります。「鉄・コバルト・ルテニウムの同じ大きさの金属粒子がある。この中でアンモニア合成能が最も高いのは?」
私がこの質問を投げたところ、AIは迷わずこう返しました。
「鉄です。一択です。鉄 ≫ コバルト ≒ ルテニウム」
専門知識と理論計算を組み込んだ最新のモデルでも、この見立ては変わりませんでした。
4.最後は実験──我々のテクノロジーが“真の比較”を可能に.──
これまで、純粋な金属ナノ粒子を同条件で用意する技術がなかったため、鉄・コバルト・ルテニウムの「真の比較」は不可能でした。しかし、私たちはついにそれを実現しました。粒子サイズは以下の通り:
・鉄:75 nm〜
・コバルト:40 nm〜
・ルテニウム(市販品):20 nm〜
そして得られた結論は…
鉄 ≫ コバルト > ルテニウム中学教科書とAIの結論が、私たちの実験で見事に裏付けられた瞬間でした(下図)。
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5.結論が意味することは、
鉄は何もしなくても本来高いアンモニア合成能をもつということです。一方、そのほかの金属は目一杯手を加えて、やっと高い性能を発揮する。前者はレーシングカー、後者は魔改造したファミリーカーに例えることができるのでは。私の好きなのはこれでもかというくらい改造したファミリーカーです。しかし、レースに出ろと言われるなら話は別です。鉄を魔改造したらどうなるか?それはこのオープンアクセス論文、あるいはこちらをご覧ください。
本来ここに書くべきことではないと迷いました。しかし、私にとって今回の発見は一生忘れたくない“核心”です。ただ、過去の大病もあり、自分の記憶を私はあまり信用していません。だからこそ備忘録として残します。
第22回 山手町:特異点としての魅力

皆さんは、わずか 0.8 平方キロメートル 程度しかないこの地域が、実は特異なエリアであることをご存じでしょうか。観光名所である「港の見える丘公園」や「外人墓地」だけではありません。
山手町には、フェリス女学院、横浜雙葉、横浜女学院、横浜共立学園といった由緒あるキリスト教系の中高一貫校が密集しています。さらにインターナショナルスクールとして、修道会が設立した サンモール・インターナショナル・スクール横浜 も加えるべきでしょう。
山手町の丘を下れば、すぐそこに元町や寿町といった著名な地域が広がり、元町を渡れば中華街に至ります。最寄り駅は、黒船来航時にペリー提督をもてなした石川家に由来する JR石川町駅。隣に JR山手駅 がありますが、地図を見ればわかる通り、駅周辺に「山手」という地名は存在しません。
では、なぜこの地域にキリスト教系学校が集中したのでしょうか。
一般にもよく知られている通り、横浜開港時に多くの外国人が居住したことで、教会が数多く建てられたことが背景です。加えて、それ以降も長く、キリスト教徒の外国人が暮らし続ける環境が維持されてきたことも重要な理由です。
例えば、山手町の丘を南に下ると本牧に至り、かつては米軍属の広大な居留地がありました。大藪晴彦『蘇る金狼』にも登場する地域で、「アメリカ坂」という実在の地名まで残っています。また、山手町の南西側にも、現在まで続く大規模な米軍居留地があります。
こうした地理的背景により、この地域は キリスト教や教会との結びつきがきわめて強い場所 と言えます。ただし、住民の大多数はキリスト教徒というわけではありません。
そのほか、山手町には日本初のビール製造施設跡が小学校の敷地内に残っていたり、現役の領事館や旧領事館が点在していたりと、歴史と文化の特異点が凝縮されたエリア でもあります。アクセスも良いため、散歩コースに加えてみるのもおすすめです。
第21回 暴君ネロ
彼の誕生日が近くなってきたので、ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス….「暴君ネロ」について記します。
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この人は非道、残虐、暗愚の代表のように言われます。ヨハネの黙示録に登場する666で表される「獣」は、多数のキリスト者を処刑したネロのことを指すのが通説です。史実として確認されていませんが、イエスの弟子ペテロを処刑したのも彼の治世のローマです。彼の妻、彼を支え続けてきた家庭教師廉相談役と将軍はおろか、前皇帝を暗殺してまで彼を皇帝にしたかった実母までも死者にしたネロが悪く言われるのは当然のことでしょう。ネロの暴君エピソードの一つに、「ネロリサイタル」を上げることができるでしょう。ある時、自分の素晴らしい歌声を披露するため、ネロはローマの闘技場に貴族や一般民衆を集めました。彼が歌を歌い始めると、闘技場の出入り口は閉じられ、歌が終わるまで誰も外に出られないようにします。さらに彼が熱唱中に居眠りをしていた者たちは兵士に鞭で起こされる始末。私はこの話を聞くと、会社で上司と行ったカラオケを思い出し、笑ってしまいます。ネロリサイタルと大きな差はありませんでした。
それでは彼が「暴君」なのかというと、なかなか判断は難しいです。実はネロの在位中は善政が敷かれたといっても過言ではありません。ローマに屈した国の一つにパルティアという王国があります。ネロがローマで「国家の敵」として認定され、30歳という若さで自殺を強いられました。しかし、彼の他界後、パルティア国王はこれまで通り、パルティアを含めた東方の国々が大恩のあるネロに対して感謝祭を続けたいとローマに申し出ました。女王ブーディカがブリテン島で反乱を起こしましたが鎮圧後のネロの戦後処理が適切だったため、ブリテン島で長い平和が続きました。ネロの墓にはローマ市民からの花が絶えることはなく、オリエントでは「俺はネロだ」という偽ネロ事件が度々起こったと記録されています。そう、ネロは一部の上流階級の人々に非道と残虐をもたらしましたが、大部分の人にとっては善政を敷く元首だったのです。ネロがローマで放火して、ローマを焼失させたという話もありますが、勝者が残した伝聞であることをお忘れなく。
人間は多面性をもつ生き物です。それゆえ、私はネロの様々な面を聞きたい人がいます。それは元奴隷のクラウディア・アクテです。彼女は若くしてネロの愛妾となり、激動の時代を生きました。ネロの遺体を引き取って墓に埋葬したのは彼女です。ネロが憎いローマの支配階級ですらアクテには何もしなかったこと、彼女が解放した多くの奴隷が彼女の名を碑文に残していることからも、彼女の人柄が偲ばれます。彼女はネロに何を見たのでしょうか。
第20回 宇宙の戦士 ロバート・A・ハインライン
溺れている1人を助けるために、一人が飛び込み、2人とも亡くなる。数字的には割りが合わない。でも、とても人間的じゃないか。
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Starship troopersを映画で知っている方は多いのではないでしょうか。それなら、米国が誇るロバート・A・ハイラインの同名原作を読んでみてはいかがでしょうか。現代人が読むと感じる作品全体を流れる独特の雰囲気は、この作品が書かれた時代が戦争の真っ最中であったことを鑑みれば、それほど気になることはないかと。
SFの巨匠ハインラインによるこの作品は、多くの素晴らしい点をちりばめています。まずは先進的なギミック。今では当たり前のパワードスーツという概念をはじめて示したのがこの作品です。機械のアシストによって脅威的な力と速度を発揮する装甲宇宙服を着た「機動歩兵」がこのストーリーの主人公です。機動歩兵はこのパワードスーツを着て、体を動かすだけで、その動きが増幅されます。面倒くさい操縦の必要がありません。映画のStarship trooperの装備というより、トム・クルーズ主演の「Edge of
Tomorrow」の装備に近いと思っていただければよいかと。このパワードスーツ自体にも強力な武装が施されており、両手に武器をもったフル装備の機動歩兵はとてつもない機動性と悪夢のような破壊力を発揮します。機動歩兵の所以です。
このパワードスーツの詳細を主人公が説明するくだりは「さすがハインライン!」と言いたくなります。このスーツではフィードバック機構が重要であり、触ったり、握ったり、踏んだりした感覚がそのまま本人の手や足に伝わることが機動歩兵の細かな動きに繋がることがわかりやすく説明されてます。また、戦友との冗談のやり取りを通してこの装備の最大の欠点が「かゆいところが掻けない」ことだと説明することによって、フィクションを現実じみたものに変えています。
戦闘の描写も見事というしかありません。上空からの地表への単身ダイブで目に映る風景、地上での近接戦闘、ドロップシップによる地上からの離脱。いずれをとても臨場感あふれる風景を見ることができます。海軍中尉に至ったハインラインの経験が生きています。
さらにこの作品で魅力的なのは綴られている内容でしょう。兵学校で教官が主人公に問います。「今、10名の国民の命が敵に脅かされている。わが軍は助けるべきか?」主人公は”Yes, Sir!”と答えます。すると教官はさらに続けます。「それでは命が脅かされている国民が1名なら?」。「当然助けます」「それがどんなにくだらない人間でもか?そんな人間を助けるために何人もの兵が命を落とすんだよ?」これにはハインラインも答えを書いていません。私が特に好きなのは次の下りです。「人が溺れているのを見た人が、水に飛び込んで助けようとした。しかし、二人とも溺れてしまった。数字的には割りが合わない話だ。でも、とても人間的ではないか」。
軍人経験者しか参政権をもたないこの話の世界観、当時の時代背景からこの作品の評価はまちまちです。しかし、それを差っ引いてもこの作品を読む価値はあるのではないでしょうか。
第19回 長靴下のピッピ
押し付けられるのがきらいな、天真爛漫な怪力ガール
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長靴下のピッピを知らない人はほとんどいないでしょう。スウェーデンのアストリッド・リンドグレーンの児童文学作品の登場する人物です。とかく、スウェーデンの児童文学は世界中で親しまれているものが多いです。「小さなバイキング ビッケ」、「ニルスの不思議な旅」もこの国の作品です。
この作品は我が国日本のアニメの創成期にもかかわっていることをご存じの方も多いでしょう。高畑勲氏、宮崎駿氏を含めた方々の長靴下のピッピのアニメ化提案を原作者が断り、その代わりに生まれた「アルプスの少女ハイジ」が多くの人を感動させるアニメの金字塔になりました。
多くの人にこのピッピさんの人柄をお聞きすると、「すっ飛んでいる女の子」という意見が多かったです。ある日、サルと馬と共に金貨の詰まったバッグを手に、とある町へいきなり現れたピッピさん、大人たちが抱いたその第一印象は決して良いものではなかったのではないでしょうか。生来の自然児のピッピ、よく言えば天真爛漫、普通に言えば、社会のことよく知らない礼儀知らずのお子さんです。頭ごなしに、「九九ぐらいは習っておくべきだ」、「学校で勉強は大切だ」と大人から言われると、「私はそんなことを知らなくても、九年間生きてきた」と反撃します。学校には行きましたが、それも1日で終わり。よっぽどつまらなかったのでしょう。
こんな子の親の顔を見てみたい。しかし、お母さんは当の昔に亡くなっており、父親は船から落ちて行方不明。彼女は暗い過去をもつ子なのかと思いきや、遭難した父親は流れ着いた島で族長を任されているという強者です。ちなみに娘のことを忘れていたわけでなく、迎えに来る程度は可愛がっています。
ピッピの怪力のことを覚えている人は多いでしょう。馬一頭ぐらいは何の苦労もなく待ちあげることができます。しかし、この怪力を人助け以外に使わないのが彼女の良いところです。優しさ、勇気、想像力もピッピを特徴づける性格でしょう。もう一つ重要なのは、彼女のユーモアです。どんな困難もユーモアで乗り越えてゆくピッピを見ていると、精神医学者ヴィクトール・フランクルの言葉を思い出してしまいます。ユダヤ系でありながら、アウシュビッツ収容所で生き残った彼は、その著作でこう記しています。「生き残れた者は力が強いわけではなかった。ユーモアが重要だった」。難局に至ると、慌てたり、悲観したり、怒ったりするのが人というもの。この世知辛い現代でピッピは大切なこと思い出さしてくれるのではないでしょうか。
日本語で山男と書けば、ほとんどの日本人は登山家ととらえます。一方、「山女」と書くと、あまりにも適用範囲が広くなってしまいます。山女は山に関わる職業の女性、山で活動する女性を指す言葉であるので、アルピニスト、山ガール、修験者、林業女子が山女にカテゴライズされます。しかし、山姫、山姥といった妖怪まで山女に分類されるのはいかがなものでしょうか。
山姫、山姥を無理に英訳すればそれぞれ、mountain princess、mountain old womanとなりますが、そんな生易しいものではありません。前者はevil young witchで後者はevil old witchです。どちらも人を積極的に殺めたり食べたりするのが好きな妖怪です。一見、山姫は髪が地面まで届く美しい女性である分、山姥よりましに見えますが、血を吸う、大声で笑うを含め、尋常ではない動きをするので山では会いたくない妖怪でしょう。
ちなみに、日本の山神様は女性と考えられています。白山信仰の中心は菊理媛命、富士山は木花之佐久夜毘売といった超大物女神が山と関係が深いことからも、この説はうなずけます。女性が山に入ることを禁忌としている山もありますが、これは女性を蔑視しているわけではありません。山神様が女性なので、女性が山に入るのを嫉妬するからだといわれています。このように考えてみると、日本では神、妖怪、人に関わらず山と女性には切っても切れぬ縁があるようです。
第17回 チビの鼻助(Der Zwerg Nase)
ドワーフとガチョウのコンビが織りなす元祖キッチンバトル童話
日本では全く有名ではない童話の一つにチビの鼻助(Der Zwerg Nase)があります。私は幼いころにこの童話を読んだのですが、グリム童話、ペロー童話、アンデルセン童話のいずれにもなく、あの童話は何だったのかと思っておりました。その憂いを一挙に解決したのAIでした。
この話はヴィルヘルム・ハウフ(Wilhelm Hauff)が19世紀に創作した童話です。童話には伝承をまとめた童話と創作した童話の2種類があり、グリム童話、ペロー童話は前者の伝承由来、アンデルセン童話は創作です。
創作童話だけあって、この話のプロットは複雑です。ドイツの靴屋の息子、12歳の少年ヤコブはある日、母親の店を荒らしている老婆に文句を言います。老婆はヤコブを自分の家に連れて行き、スープを彼に振舞います。スープを飲んだ彼は寝込んでしまい、7年間、料理の修行をする夢を見ます。かれは、夢の中で見つけたハーブの香りで目覚めましたが、彼が自宅に帰ると家族たちが家に入れてくれません。ヤコブは大きな鼻のドワーフに変身してしまったからです。
仕方なく彼は宮殿の厨房で働き、その腕前を貴族たちに披露することによって、料理人の道を駆け上がることになります。悲劇が転じて「リトルロングノーズ」の二つ名を得た彼にサクセスストーリーが訪れます。
さて、厨房での地位を高めた彼。ある日3羽のガチョウを料理用に購入します。そのうちの一羽が食べられないように人語で語りだします。このガチョウはスウェーデン・ゴッドランド島の魔法使いの娘のミミ(Mimi)であり、呪いでガチョウに変えられてしまったとのこと、また、ヤコブがもとに姿に戻るためには、彼が夢の中で見たハーブの香りをかがなければならないことを告げます。
ここから、ハーブがかかわる話に移ります。ある日、ヤコブの主が開催した宴で、客が出されたパテに文句を言いました。このパテには不可欠なハーブが入っていないと。ひどくプライドを傷つけられた主人はヤコブにそのハーブを入れたパテを作り直さねば首を切り落とすと脅します。
ここで再びミミが活躍。一緒になってハーブを見つけ出し、その香りでヤコブは元の姿に戻ります。ただし、年月が経っているので青年になっていましたが。その後、なんやかんやでミミも元の姿に戻り、大団円を迎えます。なお、ヤコブはそのまま戻らなかったので、主人と客人の間で戦争が勃発します。その名も「ハーブ戦争」。
さて、私がこの話が好きな理由の一つは、ヤコブやミミが魔法とかの超常の力をもたない、ただの人間だということです。ヤコブの料理能力は自分で鍛えた能力。ミミは知識があるだけで魔力は持たない普通の娘。こんな二人が不便な体で奮闘する姿を微笑まずに見ることができません。
2人がどうなったかって?気になる方は、https://www.youtube.com/watch?v=5cdDnKMJiQM&pp=ygUZZGVyIHp3ZXJnIG5hc2Uga2luZGVyZmlsbQ%3D%3Dとかhttps://www.youtube.com/watch?v=tl2B8Bgshk0&pp=ygUZZGVyIHp3ZXJnIG5hc2Uga2luZGVyZmlsbQ%3D%3Dとかを見ていただければ幸いかと。
第16回 新竹その2
さて、今回の出張では、見た目がショッキングだが、とてもおいしい台湾の食べ物に感動しました。
まずは、温かい赤い液体に浸る太麺。激辛かと口に運べば、トマトのさわやかな酸味と複雑なうまみがおいしいスープ。中には牛の筋肉の大きな塊も入っており、真昼間から満たされてしまいました。どうやら、番茄牛肉麺という一品であり、日本でも食べることができるみたいです。私の家の近くには横浜中華街という東洋で最大規模の中華街があるので、近々、一度食べたら病みつきになるこの一品を求めて徘徊したいと考えています。
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そして、その晩に驚愕したのが写真に写る赤い球体。アジアの食べ物なら大概の食べ方がわかっているつもりでしたが、甘かった。この球体に関しては材質も食べ方も全く想像できませんでした。これはどうやら「溫體牛蔬果湯頭」という鍋料理らしいです。まず、牛肉を処理の仕方が通常と異なるそうです。特別な処理をした薄い牛肉を丁寧に重ねて丸めた結果がこの赤い球体となります。この球体から、薄い牛肉を引きはがし、お椀に入れる。そして、野菜を含めた様々な具材で煮立ったスープをそのお椀に注ぎ、一呼吸おいてから応しい色に変化した牛肉を食します。しゃぶしゃぶの逆転させたような料理ですが、とにかくおいしかったです。残念ながら、この鍋料理を日本で簡単に食べることはできなさそうです。
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第15回 オスカー・ワイルド「幸福の王子」
子供のころ、私は童話「幸福の王子」はアンデルセン童話だと勘違いしていました。この名作の作者がアイルランドの皮肉屋オスカー・ワイルドと知った時の驚きは今でも覚えています。
To live is the rarest thing in the world. Most people exist, that
is all.
生きることはこの世で最も稀なことだ。ほとんどはただ存在するだけだ。
She lacks the indefinable charm of weakness.
彼女は弱さという名状しがたい魅力に欠けている。
Consistency is the last refuge of the unimaginative.
一貫性とは想像力のない人間の最後の避難所である。
真理を突いているが、こんなことを平然と言う人は私にとってかなり苦手な部類の人です。
戯曲「サロメ」も彼の作品です。ヘロデ王の王女サロメは、イエス・キリストを洗礼したヨハネにキスをしたいという欲望にかられます。しかし全くこれに取り合わないヨハネの首を切り落とすように父のヘロデ王に懇願します。その後、銀の盆の上にヨハネの首をのせ、サロメがキスをするという衝撃の場面。この姿を見たヘロデ王はサロメを殺してしまうことでこのお話は終わります。誰もが不幸になる話です。
この作者が感動的なラストシーンの幸福の王子の作者と同一人物であることが信じられなかった私に大きな非があるとは言えないのではないでしょうか。
話を「幸せの王子」に戻しましょう。この話は王子の魂が宿った黄金や宝石で装飾された像(心臓は鉛製)が、街中の人々の苦痛の静かに見つめることで始まります。彼らの苦しみを和らげるため、動くことができるつばめに頼み込み、自身の高価な部分を苦しむ人たちに分け与えます。私が何度読んでも落涙するのはつばめです。当初、王子の計画につばめはあまり乗り気ではないようでした。それはそうでしょう。つばめにとって人間の生活は関係ないから。しかし、もはや南に渡る時機を逸し、確実に命を落とすことがわかっても、王子にはそれを言わず、ただただ人を助けるために飛びます。寒さでつばめが命を落とす瞬間、つばめが王子のために働いた理由がわかります。
オスカー・ワイルドは華々しい登場で、派手に活躍をしました。その派手な最盛期に書かれたのが「幸福の王子」です。しかし、彼はその奔放な性格と生活から身を崩し、破産、投獄の後、誰からも見捨てられて、放浪先のホテルで亡くなりました。しかし、彼の本質は「幸福の王子」のラストシーンにあるように思えてなりません。ゴミ箱に捨てられたつばめの骸と王子の鉛の心臓。神様からこの世で最も美しいものをもってくるように命じられた天使が向かったのはこのゴミ箱でした。
第14回 新竹
仕事柄、海外出張は多いのですが、体調を崩して帰ってくることがほとんどです。しかし、今回は絶好調で帰国できたので、台湾の新竹を紹介します。
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夜に到着し、巨大な摩天楼が一部屋一部屋が大きな住宅と知り、驚愕しました。その後、連れて行ったもらった店は多くの家族とカップルで満員の「Din Tai Fung」。そこで食べたサツマイモの葉の炒め物は絶品です。小籠包を含めたおなじみの料理もおいしいのですが、サツマイモの葉の炒め物はそれだけで十分に満足できる一品です。Din Tai Fungは日本にもありますので、もし、これが日本で食べれるなら、嬉しいですが。新竹の教授たちが勧める酸っぱく、辛い麵料理も最高でした。.jpg)
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翌朝、稀な絶好調で宿泊しているホテルを下から見上げる。ホテルのサービスや装備に全くのストレスを感じないのが台湾であるということを改めて実感しました。この新竹、学術・技術で最先端を行く地域であり、有名大学2校が軒を連ねています。
第13回 オールスターの祭典「巫女の予言」

マーベルコミックのマイティ・ソーやロキ、「ダンまち」のフレイヤ、「ああっ女神さまっ」のノルニル、ワルキューレといった日本でも超有名な神様達が総出演したり、世界樹イグドラシル、神々の黄昏ラグナロック、フェンリル狼、世界蛇ヨルムンガンドといった中二心をくすぐるワードが随所に鏤められた北欧神話の凝縮体「巫女の予言(Völuspá)」を紹介します。
なお、この話は巫女ヴォルヴァの語りという表現もありますが、ヴォルヴァ(völva)は女の予言者のことであり、名ではありません。彼女の名はヘイズル(Heiðr)と考えられており、女神フレイヤと同一視される存在です。
巫女が世界の創生から、神々のほとんどが滅ぶ未来までを北欧神話の主神オーディンに語るこの詩は、壮大な北欧神話体系をまとめるだけでなく、今は失われた神々のエピソードをほのめかす点で魅力の尽きない作品です。
例えば、3人の強力な女の巨人が現れることによって、神々の平和な暮らしが終わったという記述があります。この3柱の女巨人はウルズ、ヴェルザンディー、スクルドのノルニルと考えられています。神々でさえ抗えない運命を決める3柱は神々を上回る存在であることを考えると、納得の考察です。なお、コミックと同様に3女のスクルドは短気で過激です。彼女の短気で「ノルナゲスト」という有名な物語も生まれました。
ラグナロックでは、巫女から話を聞いているオーディンはフェンリルに丸呑みされて死亡。マイティ・ソーはヨルムンガンドと相打ち。最後には火を放たれ、神々の国は焼け落ちます。この予言にオーディンはがっくりと肩を落として帰っていったそうです。
なお、この戦に備えるため、オーディンは戦死した勇者の霊をワルキューレ達に集めさせ、彼らをヴァルハラで待機させています。彼女たちが戦死者たちの魂を集めるときの様子は「ワルキューレの騎行」を聞いていただければわかるかと。
私が気になるのは巫女のヘイズルさんです。彼女が愛と美と奔放のシンボルのフレイヤならば、フレイヤには今は忘れられた別の一面があるのかもしれません。
なお、日本語で「巫女の予言」を読みたい方はhttps://www.asahi-net.or.jp/~aw2t-itu/onmyth/poeticedda/volspa.htmへ、原文と英語で楽しみたい方はhttps://books.openbookpublishers.com/10.11647/obp.0308/ch1.xhtmlでお楽しみください。
第12回 イソップ
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わからないことだらけのみんなが知っている実在した超有名人「イソップ」を紹介します。
多くの人がイソップの名を聞いたことがあるでしょう。かのイソップ童話の作者と思われているその男を検索すると、何とも言えない中年男性の肖像画を目にすることになるでしょう。こんなにも有名なのに、この人物は分からないことだらけです。
まず、この男、かのヘロドトスの『歴史』に奴隷出身としっかりと記されているほどの有名且つ実在した人物です。全ての学問の祖、哲学者であり、アレクサンダー大王の家庭教師を務めたアリストテレスもイソップを記述しています。それでいて、イソップ童話の中でイソップが作者と認められている話は何一つありません。さらに謎なのは、このうだつの上がらない男の恋人はRhodopisという美女と考えられています。このRhodopisの存在もさらに謎に拍車をかけています。彼女は奴隷から身を起こし、大金持ちになったのち、デルポイの神殿にとんでもない量の鉄串を奉納したと伝えれています。
関係者を含めた全てが謎だらけの実在した男、イソップには興味が尽きません。
第11回 Rugrats
今回はRugratsです。
実は、赤ちゃん達は言葉を理解しており、お互いに会話している。3歳時ぐらいまでは赤ちゃんの言葉がわかるので、大人と赤ちゃんの両方とコミュニケーションが取れるバイリンガル。Rugratsはそんな面白設定の米国アニメです。大人の言葉がわかる赤ちゃんという設定ですが、さすが、人生経験の少ない赤ちゃんだけあって、言葉を曲解して大騒動に発展することが度々あります。しかし、彼らの勇気と知恵と友情が何事もなかったかのように問題を解決します。
赤ちゃんの視点で画面が構成されることも多く、「よくこんなことが考えられるな」と感心してしまいます。子供のころ、家や家具が大きく見えた覚えのある方も多いのではないでしょうか。このアニメでは、オープニングからこのような赤ちゃんの視点が楽しめます。
それぞれのキャラクターの設定、描写も楽しく、付き合えば付き合うほど好きになるのがRugratsの登場人達です。まずは主役のトミー。最年少ながらリーダー格のおむつの赤ちゃんです。その風貌は、アニメ絵の中で育った日本人には多少の違和感がありますが、話数を重ねるにつれて可愛さが増していきます。また、トミーより年上の親戚チャッキーが、アレルギーのためにつらい生活を送っている場面も描写されています。こういったディテールの深さが米国アニメの良さであり、登場人物たちへの感情移入を高めるのに大きな効果を発揮しています。
Rugratsで特に印象に残っているシーンは、真昼間の校庭のど真ん中にいるトミーの視点です。広大な砂漠の中にいる絶望感が真に迫っていました。
この作品はコメディーであるだけでなく、ちょっとした表現が意味深いことも多々あります。トミーの親たちが九本の枝を持つ燭台を準備する場面があります。日本人には何のことか全く見当がつきませんが、この場面だけで、彼らのことが欧米人にはわかります。
Rugratsは赤ちゃんの騒動のコメディーですが、それを上回るメッセージをもつかもしれないというのは私の考えすぎでしょうか?
第10回 ウォシャウスキー (サラ・パレツキー)
今回はハードボイルドヒロイン V.I.ウォシャウスキーを紹介します。
ハードボイルドな女性を挙げよと言われれば、私はGrand Duchess Sofia、Caterina Sforza、Tomoe Gozenたちを思い浮かびますが、その生き様は現実離れしています。彼らに対して、非実在のV. I. Warshawskiの方がよっぽど実在している人間のように思えてしまいます。
V. I. Warshawski はSara
Paretskyが生み出した元弁護士でバツイチの私立探偵です。事件の調査を依頼され、とんでもない犯罪の巻き込まれ、殺人事件が起こる中、彼女は犯人と対決することになります。拳銃をもち、長身で空手を習得した彼女は、荒事にも強いですが、半死半生の目に合うこともしばしばです。しかし、どんな目にあっても自分を曲げずに立ち上がり、悪と対峙する生き様は多くの人たちから支持を集めています。
こんな風に彼女のことを紹介すると、「なんだ、やっぱり非実在の人ではないか」という人もいるでしょう。しかし、Sara Paretsky の描写がV.
I. Warshawskiを現実味のある人にしています。料理が好きで、家事ができないわけでもない彼女は片づけるのが苦手。捜査や大立ち回りをして疲れたてて帰ってきた部屋に散らばる衣類やごみにため息をつくV・I。父親の友人の説教や別れた彼氏を思い、落ち込むV・I。傍目で見ると、V・Iは直情径行の近づきがたいハードボイルドな探偵ですが、そのディテールからは嫌いになれない人物です。
第9回 小さなバイキング ビッケ(ルーネル・ヨンソン)

今回はONE PIECEの作者が子供のころに大きな影響を受けたルーネル・ヨンソン作「小さなバイキング ビッケ」を紹介します。
この作品は海洋冒険童話の金字塔であり、世界中で愛されてきました。説明する必要のないくらい有名な童話ですが、時代背景、インパクトの大きさを考えると、興味の尽きない作品なので、改めて紹介します。
ONE PIECEの作者が子供のころに大きな影響を受けた「小さなバイキング ビッケ」の詳細を知りたい海外の方は、ChatGPTに母国語で尋ねればよいかと思います。なお、ドイツと日本の合作アニメは世界中で放映されましたが、なぜか本家本元のスウェーデンでは放送されなかったという経緯があります。
まず、ヴァイキングは海賊のように言われることもありますが、勇猛果敢な海洋民族といった方が実態に近いでしょう。彼らは、冒険心の強さ、高度な航行術と船舶、強靭な体により、北欧―黒海―コンスタンチノープルまでの通商路を造り、地中海に至ったり、グリーンランド、アイスランド、北米まで足を延ばしました。小さなバイキングビッケが放送された時、ビッケ一行が北米に上陸し、現地の人と交流する話を見たとき、「これはさすがにないだろう」と子供ながらに思いました。しかしこれは間違い。放映が始まるかなり前の1960年にカナダ東部の
L'Anse aux Meadowsの遺跡が発見されたことにより、ヴァイキングがコロンブスよりはるか前にアメリカ大陸に至ったヨーロッパ人であることが証明されています。
ちなみにヴァイキングと言っても一枚板ではなく、デンマーク系のDaner、ノルウェー系のNorsemen、そしてスウェーデン系のSveansに分かれます。我らがビッケはおそらく作者の母国スウェーデンのSveansだと思われます。何せ、敵役がノルウェーのバイキングですから。
流石、ドイツとの合作だけのことはあり、アニメのビッケ達は原作の挿絵をベースにデザインされています。ビッケはearly teen以下の年齢のかわいく、おとなしい少年です。彼の身体的な能力は、同世代の男の子たちのそれに比べて低いのですが、彼の強みは思考、知恵とそれらを実現する力にあります。かれはヴァイキング一団を率いる族長の一人息子で、大人たちから可愛がられ、大切にされています。ビッケだけが身に着けているスケイルアーマーからも、彼がいかに大切にされているかがわかります。一族の大人のヴァイキングたちは戦時でも私服です。なお、戦時に私服の描写はやりすぎで、如何に屈強・勇敢な彼らでも、戦時にはチェーンメイルを着用していました。
このビッケ一行は、ローマ帝国領土を上回る広大な範囲を冒険します。待ち受けるは彼らより圧倒的に強い大自然や敵対勢力の脅威。絶体絶命の状況の中、勇気はあるが、力が強くないビッケは知恵を絞り、奇想天外な方法を仲間たちと実現し、難局を乗り越えていきます。Vicke
Vikingは「航海」「仲間」「友情」「冒険」の王道を進みながら、ヴァイキングらしからぬビッケの魅力無くして成立しない物語です。これは、ヴァイキングの国の人しかできない発想なのではないでしょうか。
この童話の中で面白く思った部分のごく一部を紹介することで筆をおきます。それはビッケたちが英国を襲うヴァイキングたちを懲らしめるという話です。映画The
Secret of Kellsにも描かれているように、英国、アイルランドはヴァイキングの襲撃に悩まされ続けた国でした。これら国の人達は「ビッケ達も侵略者の一味じゃないか!」と怒ることもあるかと。しかし、Runer
Jonssonは史実から彼の母国のスウェーデン系ヴァイキングSveansは英国、アイルランドを襲撃していないと考え、この話を作ったようです。実際、Sveansはロシアを経由したユーラシア大陸の南下をしており、英国、アイルランドの襲撃にはかかわっていないと考えられます。この襲撃の主体はNosemenであり、お話の中でもノルウェーのヴァイキングが悪役となっています。こんなところにも隣国との微妙な関係が表れているのが私には楽しく思えます。
第8回 アレクサンドロス東征記

今回は若きリーダーが大帝国を築いた記録「アレクサンドロス東征記」を紹介します。アレクサンドロス3世の部下が残した記録を元に書かれた本書は、単なる記録ではありません。
善政を敷いた君主が暗君に変わる。リーダシップをとっていた人が、いつの間にか皆から疎まれるようになる。こんな話を聞いたり、実感した人は多いでしょう。アレクサンドロス大王がギリシアからインドの手前までの大帝国を築いた時の壮大な記録「アレクサンドロス東征記」を読み終えた後、このような感想を抱く人がいるのではないでしょうか。
度重なるペルシア帝国によるギリシア侵攻に若きリーダーAlexは憤りを感じる。まず、ギリシアが一丸となってペルシアに抵抗するための邪魔者たちを排除し、ギリシアを統一してしまう。彼にかかれば、スパルタ人ですら手も足も出ない。
次に、ペルシアの手が伸びた中近東を制覇。そのままペルシアになだれ込む。ガウガメラでは史上初の機動包囲戦術を編み出し、25万のペルシア軍に対して5万の兵で圧勝する。なお、この革新的戦術は現代でも通用する殲滅戦のドクトリンであり、軍事大学での教材である。その後、彼はユーラシア大陸の東岸に立つことを夢見て、西アジア一帯を制覇して、インドへと侵攻する。ここで嫌気がさしたギリシア将兵たちの反発により、東征をあきらめ、バビロンに戻ってすぐに亡くなった。まだ32歳の若さだった。部下の反発がなければ、中国の東岸、もしかしたら日本にも彼は足を運んだかもしれません。
この記録が「アレクサンドロス東征記」です。彼の部下で、エジプトのプトレマイオス朝を開いたプトレマイオス一世が書いた「アレクサンドロス大王伝」をアッリアノスが再編纂したのが本書であり、歴史的価値が極めて高い記録の扱いを受けています。ちなみに、プトレマイオス一世の子孫が彼のクレオパトラ(七世)。残念なことに種本「アレクサンドロス大王伝」はアレキサンドリアの大図書館が焼失時に失われてしまいました。なお、その原因はクレオパトラとユリウス・カエサル(ガリア戦記を参照)の連合軍がクレオパトラの弟と戦った時の戦火です。因縁とは面白い。
さて、本書の価値は歴史的価値の高さだけではありません。アレックスの行動、部下達との口論、ギリシア時代からの部下の離反とそれに対する処置の記録は、彼の心理の変化を余すことなく伝えることに成功しています。
ギリシア人のリーダーとして軍を率いるアレックス。部下たちを友と思い、そう呼びました。ペルシアの大王ダレイオスが戦場から逃亡し、残され捕まった彼の妃や家族たちを丁重に扱ったアレックス。この妃が、年齢が高いアレックスの部下をアレックスと勘違いしてお礼を述べ、間違いに気づいて赤面しているところを、ジョークを飛ばして気にするなと言うアレックス。なんて魅力的なリーダーなのだろう。こういったことは、かのアリストテレスがアレックスの家庭教師だったことを我々にまじまじと実感させます。
しかし、西方と東方の文化の違いが悲劇を生みます。ギリシアでは神と人は異なる存在です。神と人の子が王家の発祥となりましたが、神と人の子は人です。そして、同じ人である限り、人は跪いて人を神としては崇めない。もちろん、人が死ねば、その人を神として崇めることはよくあることですが。一方、東方では、人が生きている人を神として崇め、跪く習慣がありました。「アレクサンドロス東征記」の中盤以降では頻繁に次のような記述が現れます。しかも、苦々しげに。「負けたこの地の人々はアレックスに取り入ろうとして、彼の前で跪いて拝んだ」彼もこのような扱いを好み、ギリシア人に跪拝を求めるようになりました。このころから、ギリシア人部下との口論、それに伴う殺傷沙汰が目立つようになり、彼らの離反やアレックスの暗殺未遂事件が起こります。
なお、アレックス最大の暴挙と呼ばれるペルセポリスの略奪、虐殺、破壊に関して、「アレクサンドロス東征記」は「焼けたペルセポリスを後にして進軍した」とだけしか語っていません。この簡潔な記述に私は恐ろしさを感じざるを得ません。その後のインド侵攻、嫌気がさした部下たち、仕方なく帰還するアレックス。そして彼の死。なぜか必然に思えてしまいます。
「アレクサンドロス東征記」は間違いなく名著です。読み終えた後の疲労感はアレクサンドロス三世も人であった証なのでしょうか。
第7回 スプーンおばさん Alf Prøysen

今回は Alf Prøysen の Mrs. Pepperpot 。日本人なら「スプーンおばさん」の題名で多くの人が親しんだ童話です。 現代はTeskjekjerringaなので、日本語題名は間違っていません。
ノルウェーの文芸を読むことは日本人にとってあまり機会のないことです。しかし、 Mrs. Pepperpotはかつて世界的に有名になった童話であり、そのため、日本の子供たちも読む機会に恵まれました。しかし、最近、この童話を目にする機会が少なったため、あえてここで紹介します。
このおばさん、何の脈絡もなく、突然小さくなり、動物と話すことができるようになります。時間がたつと元の姿に戻ることから、本人は平然としていて、「家事ができなくなったしまった」程度にしか考えていません。この状況で様々な事件を、独力で、あるいは動物たちと共に解決してゆく剛毅なおばさん。それがスプーンおばさんです。
彼女の理解者であり、彼女を助ける存在がいます。それは「森の近くに住んでいる不思議な雰囲気の女の子」で最後まで、この子が何者かが明かされることがありません。Alfに聞けば、「あなたのご想像の通りですよ」と微笑みながら答えてくれるかもしれません。ちなみに日本の国営放送でこの話がアニメ化した時、この女の子は准レギュラーとして登場します。しかし、アニメでも彼女が何者かが明かされることはありません。
この童話には、よくありがちな教訓などはあまりなく、ただ、おばさんの活躍に心が躍ります。ストレートに子供心を楽しましてくれる作品と言えるでしょう。
裕福ではない環境で生まれたAlf Prøysenは文筆家、シンガーソングライターとして大成しますが、その視点は常に一般民衆の立場から離れることはありませんでした。ノルウェーが誇るAlf
Prøysenをスプーンおばさんを通して知ってもらえればとの思いで、備忘録にこの作品を記録しました。
第6回 うらやましげなるもの 清少納言

雨宿りしていると、隣りの高校生達が盛り上げっていました。この人たち、おそらく、古典エッセイ枕草子の「うらやましげなるもの」をネタに楽しんでいる。凄すぎます。
枕草子は西暦1000年頃に活躍した偉大な歌人で当時の皇后の侍従「清少納言」のエッセイです。これは日本の高校生が学ぶべき古典として教科書に必ずと言っていいくらい収録されているエッセイですが、現代人が簡単に読める文章ではありません。それで盛り上がれる彼らは、かなり名のある高校生に違いない。あるいは彼らの先生が偉大なのか。
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「うらやましげなるもの」は無数に思える鳥居が並ぶ京都が誇る名所「伏見稲荷神社」に清少納言が個人的に参拝したときの話です。皇后の侍従とはいえ、位の低い清少納言は、徒歩で宮中から神社に行くほかありません。しかも、宮中で働く彼女には体力がありません。朝の暗いうちから5マイル以上の距離を歩いて神社の麓にやっとたどり着き、山頂の神社に向かって山を登ってゆきます。しかし、後から来た人たちが自分を追い抜いていくのを見て、疲れ果てた清少納言は涙目で「どうしてこんな暑い日にお参りしたんだろう」と愚痴を言います。普段、気にもかけない人をこんなにも羨ましいと思うなんて。
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後に歌仙(Immortal Poet)と称される清少納言の前で繰り広げられる、1000年以上も前の今日と変わらぬ雑踏、現代人と変わらぬ彼女の感覚に思わず微笑んでしまうのは私だけでしょうか。
最後に、清少納言が残した有名な随筆の英訳を記します。「春はあけぼの」ではじまる彼女のつぶやきは、英語にしても美しく感じます。
“In spring, the dawnーwhen the slowly paling mountain rim is tinged with red, and wisps of faintly crimson-purple cloud float in the sky.” (Meredith McKinney 2006)
第5回 HEY ARNOLD!
今回紹介するのは「HEY ARNOLD!」。特に、Season 1, Episode 18「Arnold's Christmas」は米国が世界に誇るべき感動の名作だと私は思います。
わたしは以前に、米国のPenn Stateでポスドクとして働いていました。夕方、家に帰ってきたとき、テレビに映っていたのがNickelodeonのcartoon「HEY
ARNOLD!」でした。絵柄からわかるように、コメディタッチでアーノルドと愉快な仲間たちがトラブルを起こしたり、トラブルに巻き込まれたり、トラブルを解決します。
私が感心したのは、それぞれのキャラクターの設定の面白さと深さです。アーノルドは素直でやさしいナイスガイですが、両親は行方不明で、賄い付きのアパートを経営する人の良いおじいちゃんとおばあちゃんと暮らしているという重い設定があります。なんだかんだ言って、最後までアーノルドに付き合う親友のGerald。同級生の超「ツンデレ」のHelga。ちなみに、ツンデレは西暦2005~2006年以降で日本のマスメディアで使われるようになった概念であり、1996年に放送を始めたHEY
ARNOLD!が典型的なツンデレキャラのHelgaを登場させたことは特筆すべき先進性です。
さて、この作品、全てのエピソードが面白いのですが、Season 1, Episode 18は特に多くの人に見てもらいたい話です。「Arnold's Christmas」はWikipediaにも記載されているほどの名作なのですから。
アーノルドの祖父母が経営するアパートにはMr. Hyunhというベトナム出身のおじさんがいます。このおじさんには生き別れた娘がおり、その娘との再会をクリスマスプレゼントにしようとアーノルドが親友Geraldと共に奮闘するお話が「Arnold's
Christmas」です。背景があまりにも重いため、製作、放映が困難を極めたこの作品は、製作者たちの不断の努力により、不動の名作として世に放たれました。
娘との再会というメインプロットは当然素晴らしいのですが、最大の見どころは、エピソードを締め括るHelgaの一言です。この一言で、このepisodeはViolet
EvergardenのEpisode 10 “A Loved One Will Always Watch Over You”に勝るとも劣らない作品にまで昇華したと個人的に思っています。日本にもクリスマスにプレゼントを贈る習慣はありますが、その意義は欧米人に比べ、かなり希薄です。このような背景で育った私は、Mr.
Hyunhにプレゼントを送れたことに喜ぶアーノルド達、そしてその彼らに最高のプレゼントを贈れた喜びをかみしめるHelgaが最高にクールだと思いました。
このエピソードは米国ではとても有名だと聞いています。しかし、この話はもっと全世界で広められるべき話だと思っています。
ガリア戦記は西欧を縦横無尽に駆け巡ったカエサルの記録でもあります。まず、スイスで難民問題に端を発した紛争をカエサルが片付けます。次に、ベルギーで大戦争をしてから、大西洋岸で海戦を交えた紛争を鎮圧し、ライン川を渡河して、ゲルマン人に脅しをかけます。泳いだり、船に乗ってライン川を渡河するのは、文明人たるローマ人のすることではない。ローマ人は橋を作り、堂々とその上を行進して対岸のゲルマン人の地に侵攻すべきだとの謎理論で、川幅の広いライン川に橋を架けてしまいます。かけた橋に満足し、「ゲルマン人がビビっているに違いない」と悦に入ります。
その後、海を渡ってイギリスに上陸し、ブリトン人と戦闘を繰り広げます。第二次世界大戦時の英国首相チャーチルは、カエサルの上陸によりイギリスの歴史が始まったと明言しました。このイギリスでの戦いあたりから、数多の歩兵戦、騎馬戦、戦車戦、海戦を交えた、指輪物語ばりの一大スペクタクルは、ガリア全土の大反乱を迎え、最終決戦「アレシアの戦い」というクライマックスに向かいます。ガリアの首魁ウェルキンゲトリクスが逃げ込んだアレシアの城塞都市を包囲するローマ軍を、さらに包囲攻撃するガリア軍。背と腹に大軍を受けた史上初の大規模二重包囲戦を制したのは、カエサルでした。この戦いの最後の場面は「ウェルキンゲトリクスは、自ら進んで捕らわれの身になった」の簡潔な文章だけで結ばれている。そしてカエサル自身が著述したガリア戦記は、「この年の戦果を知るや、ローマでは20日間の神々への感謝祭が決定された」の淡々とした記述で終わっています。
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この一大創作のような戦記を生み出したカエサルの最後で、ガリア戦記の紹介を終わりにします。暗殺されたカエサルの遺体はテヴェレ川の畔で荼毘に伏されました。火勢が弱まり、参列した人々がカエサルの遺灰を集めようとしたそのとき、突然の激しいにわか雨が遺灰をテヴェレ川に流し、消えてしまいました。彼は人間だったのでしょうか。
第4-2回 ガイウス・ユリウス・カエサル 「ガリア戦記」2
ガリア戦記は、カエサルが元老院に送った報告書です。このため、カエサルが三人称で表され、「カエサルは―と判断した。」とか「カエサルは―を攻撃した。」という文体になっています。当時はケルト人、ゲルマン人がローマ領や西欧ガリアのローマの友好都市を攻撃する不安定な時代であり、ガリアを安定化するために元老院が派遣したのがカエサルでした。したがって、現代と同じように毎年の報告書提出がカエサルの義務でした。
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ガリア戦記のデフォルトは、西欧全体の状況説明、事案の発生原因、戦略と軍団の移動、戦場の説明、戦闘準備、戦闘、戦後処理を卓越した文体で客観的に記述する形式です。戦場の説明と戦闘準備は学術論文のように地形、城塞、攻城設備が淡々とではあるが詳細に記述されいます。そして、戦闘の記述には生き生きとした描写が加わります。「カエサルは味方の兵から盾をもぎ取ると、それをかざして最前線まで走り、百人隊長達の名を呼んだ。」ライバル同士の百人隊長2名が功名を争い窮地に陥るも、2人が協力して危機を脱する場面に喝采する兵士達。戦闘中に慢心で深追いして壊滅しかけた部隊を救い、その勇気を称えながらも慢心を叱責し、再び戦場へ戻るカエサルと兵士達。このような息をのむ描写が時間を忘れさせ、いつの間にか戦闘が終了しているのです。特別企画としては、ガリア、ゲルマニアの文化、社会、人の説明し比較と考察を深めることもあれば、ブリテン島の1日の長さの測定といった科学的記述もあります。
さて、この報告書の内容が民衆に伝わることを知っていたあざといカエサルは、随所に自慢をエレガントに織り込んでいます。あまりにも多いので一つだけを紹介します。「元老院はカエサルの功績を称え、(これまでの感謝祭の最長期間は政敵ポンペイウスの7日であったが)15日間の公的な感謝祭supplicatioを祝うことを決定した。」彼が本当に言いたかったのはカッコ内の文章を加えた全文ですが、下品な自慢を嫌う彼はカッコ内を書かなったという塩野七海先生の意見に私は賛成です。
第4-1回 ガイウス・ユリウス・カエサル 「ガリア戦記」
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第4回はガイウス・ユリウス・カエサル(BC100-BC44)、俗にシーザーと呼ばれる男の「ガリア戦記」人間的な魅力に満ち溢れた借金、色恋沙汰、商売、政治、戦争、文芸の超越者がローマ元老院に送った報告書の話。
ガリア戦記の著者カエサルは魅力が尽きない人物です。塩野七海先生は、ローマ1200年の盛衰を描いた超大作「ローマ人の物語」全15巻で2巻をこのカエサルに割いています。両腕を頭の後ろで組んで、裸馬でローマの坂を駆け下りていた少年は、多くの分野で異彩を放ちました。
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借金:カエサルは、負債が余りにも大きくなると、債務者は債権者にとって失うことができない財産になることを教えてくれた。外国の任地に赴く前に、債権者たちが大勢押しかけ、金を返すまで任地にはいかせないとカエサルの出発を阻止した。債権者たちを宥めたのは、カエサルが最も多く借金をしているクラッススであった。
色恋沙汰:多くの元老院議員の夫人がカエサルの愛人であった。このことは公知であったため、不倫とは受け取られなかったようである。多くの愛人がいたのにもかかわらず、愛人たちから恨まれたことはなったという。当時、絶世の美女とうたわれた女性とカエサルとの間に、全く色恋沙汰の話がないのは、彼が美女ならだれでもよいという人ではないことを示唆している。カエサルを暗殺したブルータスの母親は、カエサルの愛人の一人だった。彼女はどのような気持ちでカエサルの死を聞いたのであろうか。
政治と制度:ローマでは持ち出すたびに混乱、死者、政権交代が起きる「農地法」を与党・野党協賛のような形で成立させてしまった。また4年ごとに閏年を入れる1年365日のユリウス暦を制定。それまで密室の会議であった元老院議会の議事録の即日公表。公務員法の策定。

商売:結構すごい。いつの間にか、かれは債務者から債権者にジョブチェンジしていた。カエサルの凱旋式の行進では、彼に付き従う軍団兵からコミカルなシュプレヒコールが一斉に上がった。「ローマ人たちよ、戸締りをせよ、金のないやつは気をつけろ。」ローマの凱旋式では、神々が凱旋式の主役に嫉妬しないように、軍団兵が凱旋将軍をこき下ろすシュプレヒコールを上げるのが習わしだった。「あまりにもひどすぎないか?」とカエサルから軍団兵達に文句を言う一幕もあったが、彼を愛する軍団兵は「当然の権利」として取り合わなかった。
戦争:カエサルは常勝の将軍ではない。負けるときは負ける。しかし、どれほど劣勢でも、ここぞというときは必ず勝つ。アレクサンダー大王が発明し、ハンニバルが再発見し、スキピオが完成させた「機動包囲殲滅戦」を、劣勢ながらファルサスで破った天才である。
文学:カエサル以前、ラテン語はギリシア語に比べて粗削りな部分があり、上流階級や学者はギリシア語を使う傾向が強かった。しかし、カエサルは卓越した文体による客観的で簡潔な記述、生き生きとした描写力、そして政治的な意図を巧みに織り込んだ巧妙さをラテン語で達成した。それが「ガリア戦記」である。ちなみに、このガリア戦記はカエサルの時代から2000年以上経過した現代でも、全世界で重版を重ねている。このような文筆家の夢まで叶えてしまった超人、それがカエサルである。
第3回 ともつか治臣 「令和のダラさん」
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大学教授が漫画を読むのかと聞かれることがあります。もちろん読みます。書店に行くことが少なくなり、書店に行っても、ビニール袋でカバーされ、漫画の内容を確認できない。あるいは電子書籍でも、その面白さがわかる長さまで試し読みができない。そのような現状で、自分が好きになれる漫画に出会うことはかなり難しくなっています。
そんな中、見つけたのが、ともつか治臣先生の「令和のダラさん」です。
姦姦蛇螺というネットホラーをご存じでしょうか。ある村からの依頼で、心優しき巫女が怪物の大蛇と戦い、蛇の魔物となってしまう話です。依頼した村人の策略によって、命を落とし、魔物となってしまう巫女さんの話に一抹の寂しさを私は感じていました。救いがないのです。
そんな元巫女の魔物の現代を描くホラー&コメディが「令和のダラさん」です。この作品では、邪悪な人間も登場しますが、それはごく少数です。上記の村の末裔達も登場しますが、この元巫女さんを取り巻く人たちは、お人好しの善人ばかりです。もっとも、登場人物の中には怪しげな風体な人、目つきが悪そうな人も数多くいますが、ご安心を。善人ばかりです。なお、ともつか先生はこの作品を「美少女が描く、美少女しか出てこない、美少女漫画」と評しています。
いずれにせよ、私はこの作品で「姦姦蛇螺」が救われていることに安堵しています。
第二回 アン・マキャフリー 「歌う船」(The Ship Who Sang)

英語題名を見て、これおかしくね?の感想をもつ日本人は多いのではないでしょうか。船なのになぜ関係代名詞が「who」なの?「which」、「that」が正しいのでは?この物語ではwhoが正しいです。なぜなら......。
アン・マキャフリーの「歌う船」は、恒星間移動が当たり前の時代の話です。この世界では、重度の障害で生命を維持できない新生児がサイボーグとして生きることを親が選択できます。分厚いチタニウムの外殻で保護された新生児は、その中で成長し、外殻の端子に接続されたセンサー、アクチュエーターで健常児と変わらぬ成長を遂げます。このことから、彼らはシェル・パーソンと呼ばれています。面白いのは、シェル・パーソンが非サイボーグの一般人を「少し不便な人たち」として見ていることです。
シェル・パーソンのヘルヴァは、能力・適性の高さから恒星間連合国家の宇宙船の運航を選んだティーンエイジャーです。この恒星間宇宙船はシェル・パーソン(頭脳「Brain」)と乗組員(筋肉「Brawn」)のツーマンセルで運用されるため、2B船(Brain-Brawn
ship) と呼ばれています。そしてヘルヴァは茶目っ気のある若い宇宙飛行士ジェナンに一目惚れし、彼をBrawnとして宇宙を駆けます。
宇宙を駆けながら歌うのが好きなヘルヴァは歌を傍受した多くの人から変な「歌う船」と嘲られます。意気消沈するヘルヴァをジェナンが「美しい。止めることはない。」と励まし続けます。そして彼らが単独で海賊団を撃破した時、「歌う船」は賞賛に変わります。しかし、順風満帆の彼らを悲劇が襲います。避難民の輸送任務中、ヘルヴァは目の前でジェナンを失ってしまうのです。
多くの人は私がネタバレをしていると考えているでしょう。ご安心ください。ここまでがイントロダクションです。悲しみに沈む彼女に次々と臨時のBrawnをあてがい、様々な任務を与える恒星間連合国家。これは、国家が非情なのではなく、誰かの優しい配慮です。文句を言いながらも、Brawnと共に悩み、一生懸命に任務をこなしていくヘルヴァ。多くの事件、出会い、別れが彼女を強くしていきます。
読み終えて思うのは、この作品が働く女の純粋なラブロマンスであり、SFが舞台とディテールに一層の拡がりと深みを与えていることです。ハッピーエンドに「本当に良かった。」と満足できる作品の一つではないでしょうか。
この作品で驚くのが、1961-1969の間に発表されたされた作品とは思えない程の新鮮さです。SFだから時代を感じさせないのは当然との意見もありますが、巨匠の作品でも執筆された時代を反映した記述は多く見られるものです。しかし、「歌う船」ではそのような時代背景をほとんど、あるいは全く感じることがありませんでした。名作は色褪せないとはまさにこの作品に当てはまるのではないでしょうか。
「歌う船」は日本の漫画、アニメ、ライトノベルに大きな影響を与えたと考えられています。それは機械の体のヒロイン像です。この作品以降、同様の設定をもつ作品が当たり前になったと評されています。
最後に一つ。ヘルヴァのコードネームは「The ship who sings」。本作品のタイトルは「The Ship Who Sang 」。こんなところからも、作者のセンスの高さが感じられます。この作品が米国の誇る著作の一つではないでしょうか。
第一回 H. P. ラヴクラフト(1890-1937)
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私は漫画を含めた多くの著作が好きです。その中から、お気に入りの作家を紹介します。中二病を患った方のほどんどが知っているH. P. ラヴクラフトです。米国屈指の作家の一人だと私は思っています。
彼は、友人への手紙でこう記しています。「私には、フランケンシュタインや狼男が怖いものには思えないのです。」H. P. ラヴクラフトの著作を読むと、彼が、恐怖の対象を具体的に表記しないことがどれほど恐ろしいかを示した先駆者・天才であることがわかります。映画The
Blair Witch Projectとか、小説「リング」の恐怖に通じるものがあります。
手紙魔の彼は友人に次のような手紙を送っています。「私は旅行が好きです。しかし、お金があるときは体調が悪く、体調が良いときにはお金がありません。旅行を楽しむことができないのです。」ラヴクラフトは不遇のまま生涯を終えました。しかし、現在では、世界中で多くの人が彼の著作を愛読していること、彼とその弟子の作品をモチーフにしたゲームが毎年のように発表されていることが彼の魂の救いになっているかもしれません。